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2024年8月17日土曜日

[IS-REC/ISSUES]『働き盛りの息子・娘に負担かけたくない!』~医療・介護の家族サポートとケア考~

 ●遠隔地のキーパースン

 公務員退職後も長らく現役社会人だったH氏(94歳)が倒れた。急性期病院治療後に当科紹介、廃用症候群として原病治療継続とリハビリを行う予定であった。しかし転院後に原病に伴うさまざまな続発症や合併症を起こして死地を彷徨った。その都度、東京在住のキーパースンであるH氏長男に直接来院していただいた。電話連絡で済ませられる場合もあったが生死に関わる事が多く遠隔地からの来院要請は致し方なかった。H氏長男は年齢的にも要職に着くエッセンシャルワーカーであり、時間のやりくりは相当大変だったに違いない。20数年前に両親を亡くしている私とH氏長男とではケアされる世代の私とケアする側の彼とで立場はまったく異なるが、とても人ごととは思えなかった。自分がH氏のようになった場合、多忙な遠方の息子・娘は果たして仕事を放って当地まで駆けつけて来れるだろうか?

●家族介護の現実

 団塊世代が75歳を過ぎ、75歳以上人口は2000万人を超える。厚労省の推計で2040年に生産年齢人口(15歳~64歳)が現在より2割減少し、いわゆる「8がけ社会」となる。2050年には高齢一人暮らし世帯が44%、2060年には65歳以上高齢者の3人に一人は認知症で何らかのケアが求められるようになる。高齢化や過疎化進行が全国平均よりずっと前をひた走る秋田県。日常、障害を抱えリハビリを行い、その後も外来で治療を続けるたくさんの患者さんをみていると、介護保険があっても経済的に施設利用も在宅サービスも困難、一方家族による介護力も乏しいといった悲惨な現実に突き当たる。夫と二人暮らしで外来通院中のS(89歳)さんは受診時に決まってケアする夫への愚痴や不満を繰り返す。起立・移動が困難なSさんを在宅で介護する夫の負担は相当だろう。しかし介護保険の自己負担額を考えると施設や在宅サービス利用は困難なのだ。同様な例は、退院先や退院後のサービスを検討するリハビリカンファランスでもしばしば話題となる。家族の介護力から在宅ケア主体の自宅退院が困難と判断されても、経済的理由から在宅を選択する家族がしばしばみられる。また家族介護のために息子・娘が離職して遠隔地から当地に戻るケースも数多い。家族の負担を最小限とするはずの介護保険が少子高齢化と「8がけ社会」の現実を前に機能不全を起こしつつある。

●ヤングケアラーとビジネスケアラー

 ある大手半導体メーカーの正社員を対象に親の介護について調査したところ、現在既に親の介護をしている 割合が12%、将来的に親の介護のため離職を考えているが65%だったという(朝日新聞、けいざい+『増えるビジネスケアラー』2024.6.12)。中堅社員を多く抱える大企業では親の介護の問題を相談できる仕組み作りも進んでいる。介護に関する最近の話題は、高齢者増加と高齢者・障害者家族を介護するヤングケアラーやビジネスケアラーの問題である。ヤングケアラーの問題は子の将来に関わるため深刻であり法律上、行政支援の対象となった。しかしその実態把握は不十分で支援体制の地域間格差は大きいという(毎日新聞2024年6月28日社説)。ビジネスケアラーでは、仕事と介護を両立させるタイムマネジメントが大変である。今後、介護される高齢世代が増加し、働きながら介護する人が確実に増えていくだろう。また生産年齢人口を構成する若い世代が東京一極に集中しているため、遠隔地の故郷に戻って家族介護に当たるベテラン社員の介護離職が中央の中・小・大企業で生じて来るだろう。これは職場内に限らず、現役世代が減少を続ける社会全体の大きな問題である。

●ケアされる側と、する側の問題、そしてACP

 医療と介護の現場で仕事に従事し、医療と介護に関わる周辺家族の現実、医療と介護を受ける患者の状況を第三者の立場でみる習慣がすっかり身についてしまっている。しかし今後の医療と介護の問題は無論人ごとではない。自分自身の行く末を考えると、加齢や持病・疾病併発で健康寿命が尽き入院医療や介護が必要となる時が必ずやってくるだろう。また様々な手続きや意思決定が困難になると、遠方の息子・娘の直接・間接のサポートも必要となる。そんなディストピアに映る近未来で医療とケアを受ける自分と、それを支えるケアラーとしての家族(息子・娘)を具体的にイメージすることは辛いことだが避けては通れない。いつも他人事と感じているアドバンス・ケア・プランニング(ACP)も身近な自分と家族の問題として検討していかねばならないだろう。

●それでも健康長寿の元気老人を続けたい

 高齢でも元気で現役を通した日野原先生や瀬戸内寂聴さんの紹介本。最近では4回の月曜連載記事(読売新聞)で紹介された『「人生100年の歩き方」天野恵子さん(内科医)』の記事。カスピ海ヨーグルト創始者、家森幸男先生の近著『80代現役医師夫婦の賢食術』(文春新書)。いずれも健康で仕事を続ける自らの日常生活や食事のノウハウ、心構えを披露している。こういった健康情報で得た知識でわれわれ夫婦もすっかり、“健康お宅”である。妻は認知症予防にハングルを学び続け、ピアノレッスンを受けるのも欠かさない。多少の身体不自由を抱えるが毎日水中ウォーキングにでかけている。また朝市に通い、新鮮な野菜や魚を求めて朝の食卓に供している。私も現役医師を続けながら1日1万歩以上の運動ノルマを果たしている。一方、身近なところで友人や知人の脳卒中・心筋梗塞・ガン罹患や急逝の報を聞くことが多くなった。誰しも決して予期していなかった事に違いない。現在の境遇と健康に感謝する気持を忘れず、「働き盛りの息子・娘に負担はかけたくない!」の気持ちで健康長寿を全うしたい。
(本稿は2024年8月、由利本荘医師会報NO.602「銷夏随想」に掲載した)



2018年8月2日木曜日

■2018年08月02日(木)快晴

ここ2週間の歩み:

「釧路湿原と知床」ツアー参加(7/22~7/25)・由利本荘の花火で納涼(7/28)

7月11日の早朝トレッドミル直後に発作性眩暈を初めて経験した。症状は翌日には軽快したが“めまいと嘔気”の恐怖は早朝トレッドミル再開を躊躇させていた。一時症状はすっかり消失したかに思われトレッドミルを再開したが、その後も仰臥位から起立すると、また逆に立位から仰臥位になると決まって数秒間のめまいがあった。そんな状況に関わらず以前から予約していた3泊4日の「釧路湿原と知床トレッキングツアー」に参加した。

写真1

幸い好天に恵まれ、上述の姿勢変化をしない限りメマイはなく、40数年ぶりの道東とオホーツク海を遊んだ(写真1)
7/28[土]は由利本荘の納涼花火大会あり、会場の友水公園(ボートプラザアクアパル前河川敷)に足を運んだ。
夕暮れ時、清流子吉川の川面に映る対岸の建築物の影、点々と広がる水面の明かりも良かった。午後7時30分から1時間半、やや間隔の間延びした花火打ち上げだったが内容はまずまず(写真2)


今朝も早朝トレッドミル実施

姿勢変化で起こるめまいもなくなり、今日は早朝トレッドミル実施。連日の暑さでトレーニングルームにクーラーを設置しているがそれでも運動は早朝しか考えられない。今朝は運動距離6kmで43分間。速度8.4km/hr.、平均HR114bpm、消費カロリー280kcal.(グラフ)

今は岩ガキが最盛期

ワイフが毎朝出かける朝市の魚屋さんではもっぱら岩ガキが並んでいるという。今朝はその岩ガキを買い込み、朝は海塩味のカキをそのまま何もかけずにいただく。朝食その他は定番、酒田納豆やミニトマトなど。黒大豆入り玄米ご飯、ダイコン葉と油揚味噌汁である(写真)

今日の入院と診療予定は・・

先週3日間休暇を取ったため、休み明けの週末、そして30日からの週日は超多忙。貯まった病棟の仕事に加えて毎日のように新規入院が入って来た。今日の新規入院はSH(75歳男)さん。約2週間経過した右小脳出血例で、心房細動のため、抗凝固剤(DOAC)使用中の発症。以前から認知症もありここ1年以上、小声状態の構音異常あるが留守居もできたという。まだ血腫周辺浮腫あり意識も清明とはいえない状態で管理も大変、予後も厳しそう。今日はその他、午前・午後1例ずつ嚥下内視鏡実施。合間を縫って午後は他の医師から依頼された左視床出血の入院患者を診察し、リハビリ開始を指示。夕方に退院をしぶるTYさんの家族と面談。“高齢・重症障害・経済的貧困と介護力なし”がほとんどの患者さんに共通したキーワードだから大変だ。午後5時30分帰宅。

夕食は“メバルの煮つけ”と・・

帰宅して午後6時30分から夕食。今日は今朝市場で購入したメバルの煮つけ、過日いただき物で残っていた“鰻の蒲焼”ほか(写真)。その後写真にはない、トウキビとミニトマトをつまんで、やや食べすぎとなる。

2018年5月16日水曜日

[IS-REC/MyLIFELOG]■2018年05月16日(水)晴れ

高階 高先生のこと

高階 高先生は卒寿を過ぎた現役開業医の女医さんである。20数年前、同じ医師で夫の春光氏が私の患者さんであったご縁でそれ以来の長いお付き合いである。当時既に御夫婦とも高齢であり、しかも診療を休まず,続けられていた。春光先生が倒れた後、私の元で治療とリハビリを行った。幸いにもその甲斐あって、元気になられた。ケアの必要ない状態まで回復されたことから、高先生からはとても感謝され、春光先生が他界された後も欠かさず年始の挨拶をしてくださっている。2年前には、それまで書きためたエッセイをまとめて、「続・思い出の小函をあけて」を秋田共同印刷から出版され、私にも一冊送っていただいた(写真)。私が生まれる以前の東邦女子医学専門学校のご卒業であり、当時の学生時代の話はとても興味深い
さて、昨日リハセン出張の折に、久し振りに病棟看護師のHTさんに声をかけられた。「高階先生が『佐山先生、元気にしてる?』といつも高階医院に診察受けに行くと訊かれるんだよ」とのこと。私が定期的にリハセンに出張しているのを知っているのか、あるいはまだリハセンに勤務していると思っているのか、多少記憶の混乱した結果らしいが、看護師Iさんは、「佐山先生、元気みたいよ!」と話してくれているとのことだった。高階 高先生は既に93歳であるが、未だに地元の医師会報に欠かさずエッセイを書いている。まったくお元気そのもので、私も彼女の健康と元気にあやかりたいものだと常々思っている。

今日1日は・・

今朝はトレッドミル運動を完全にパスしてしまった。晩に運動すると興奮して寝付きが悪くなり、また翌日、下肢の筋疲労が残り、運動する意欲にブレーキがかかる。そこで今日はおやすみの日とした。起床後の朝食は、ヒラメのカルパョチョの他、蒸し野菜やパセリ入り玉子焼き、納豆など、定番メニュー(写真)

定時出勤後、オーダー端末に向かう日課が始まり、午前中、機能性構音障害の小児新患1名の診察。その後、ET(96歳女)さんの施設入所診断書2通の作成、他医からのリハ依頼患者IM(80歳男)さんの診察とリハ開始指示。彼は陳旧性性右脳塞栓症で以前に当院でリハを行い、今回は心不全悪化・回復後の“廃用症候群”である。午後3時からES(88歳女)さんの嚥下内視鏡検査。ESさんは経鼻胃管栄養が長期化して今週金曜日(5月18日)PEG予定の患者さん。咳反射の誘発や咽頭知覚低下あるが、意外に喉頭周辺の唾液貯留少なく、口腔保清は良好であった。その後、医局で嚥下機能評価検査の申し合わせ事項を箇条書きにした書類を作成。午後5時20分、帰宅。
夕食6時。今晩は、鯛のアラ潮汁と、子持ちミズガレイの煮付け(写真)。共に新鮮で味よくいただけた。夕食後は一休みして鶴舞温泉へ直行。

2014年12月14日日曜日

[IS-REC] この時期、古代朝鮮史に親しむ旅

厳寒期の韓国旅行

韓国旅行1412

   大韓航空による秋田と仁川を結ぶ航路はここしばらく利用客減少で休止中でした。師走のこの時期どのような判断があったのか、数カ月ぶりに運行一時再開の報せ。といっても現在は円安-ウォン高という為替状況、日本-韓国の友好ムードに乏しく、また旅行には一般に適しない厳寒期と二重三重にこの隣国へのツアーは悪条件が重なっています。

ワイフ、ハングル語学習始めて3年

  ワイフがハングル語学習を始めて3年、それなり上達しているのを現地で確かめたいという希望を受け入れ、急遽『古代朝鮮史に親しむ韓国旅行』をプランしてもらい駆け足旅行をしてきました。

仁川には日暮れ頃に到着。そして到着するなり零下5度以下の肌がぴりぴりする外気温。積雪はほとんどなくこの大陸性気候に先ずびっくり!!

   仁川からは車で南下し、小1時間ほどで予定の温陽温泉に到着、そこで温泉に浸かって一泊。翌日は古代朝鮮史に関係した百済の都、扶余へ直行しました。

百済の都、扶余

  ここは5世紀、高句麗との戦いに敗れた百済が都を漢城から南へ移し、百済中興の祖といわれる武寧王から聖王が築城した都。日本に仏教を伝えた聖明王とはこの聖王のこと。高句麗や新羅・唐が互いに勢力伸張を図っていた時期だけに仏教伝搬も当時の日本との関係を強化したい狙いがあったものと思われます。この扶余で武寧王の陵墓(宋山里古墳群)、百済の古都、公州を守るために造られた城郭、公山城を見学し、また660年新羅と唐の連合軍により百済滅亡に至る“白馬江の戦い”の跡、特に多数の女官や妻子が凌辱を恐れて川に飛び込んだという“落花岩投身“の跡、宮城のあった扶蘇山城を徒歩周遊しました。翌日は再び北に向かい水原へ。

世界文化遺産・水原華城

  今度は時代がずっと進んで18世紀、朝鮮第22代、正祖大王が築城したという世界遺産登録の水原華城を見学しました。特に石材と煉瓦を組み合わせ、セメントのない時代に砂泥で固めた城壁が見事でした。

国立中央博物と伝統舞台芸術鑑賞(ソウル)

  午後は国立中央博物館で東アジアの文化・文明の発展をたどる様々な陳列を斜めに見ながらほとんど素通り(2時間では致し方なし)。夜はソウル市内の貞洞劇場での伝統舞台芸術を楽しみました。

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駆け足韓国旅行を振り返って

  翌日には仁川からとんぼ返りの帰秋。まったくの駆け足旅行でしたが、近現代に朝鮮王朝が倒され日本に併合されるという悲劇を乗り越え、民族の歴史をその古代からたどり、再度の発掘調査や歴史的記念碑の復元・整備を通じて壊されかけた民族意識を再度作り上げつつある韓国民に日本人の一人として頭の下がる思いで帰って来ました。

2014年1月9日木曜日

[IS-REC] 賀状を整理、中学クラス会を思い出す

50年ぶりに故郷函館で中学クラス会

  例年にないまとまった暮れ正月休暇を、自宅でのんびり過ごした。そして、いただいた年賀状を整理していたが、その中に中学・高校同窓であった旧友B君の几帳面に「本年もよろしく」と書かれた賀状を見つけた。手にとって昨年秋に故郷函館で50年振りに開かれた中学クラス会を思い出した。

最初で最後が再会約束

団塊世代のマンモス中学在学

  M中学校3年H組。まさに団塊世代に当たる我が中学時代は約50人一学級、13クラスのマンモス中学校・・・(恐るべきか、小学校は教室が間に合わず一時、“2部授業”さえ経験した)

  還暦前後から高校・大学などの同窓会・同期会が開かれるよにうなった。しかし中学同窓会は案内状すら来ることなく、その機会はまったくなかった。当時の我が中学は諸事情で中学1年からクラス替えもほとんどなく持ち上がり、そのためクラスメートの結束は強かった。しかし卒業後、担任H先生が早く亡くなられたこともあり、地元の仲間うちでクラス会を持とうという呼びかけはまったくなかったらしい。そして約半世紀が経過した。

  昨年春、今もお付き合いする東京在住S君がたまたま上京したY君(故郷で理容業を開業)と歓談、その際に中学クラス会を開こうということとなった。古い住所録や各自のつてを便りに連絡の輪を拡げていった。そしてとうとう昨年9月21日、私を含む16名の旧友が故郷函館で集うこことなった。在函の面々の多くが参加。また私を含む道外からの参加も数名あって、会は大いに盛り上がった。今年賀状をいただいたB君は仙台からかけつけた。クラス担任を囲む事はできなかった。また大柄で屈強、事業家のH君が既に他界していたのは意外だったが、参加した男も女も当時に戻ってワイワイ、ガヤガヤと、“中学生”さながらに旧交を交わした。

  後日、地元地方紙(道新)に幹事を務めたY君の投稿で写真入りのクラス会記事が掲載された。この通称“3H(3年H組)”クラス会は皆が一致賛成したこともあり、今年も開かれる予定である。

2013年9月2日月曜日

[IS-REC] 2度目の富士山登頂は強風の中で

異常気象と台風接近による影響?富士山は強風が吹き荒れました

8月29日秋田発、阪急交通社の富士登山ツアーに参加

   2010年の富士初登山は、8月第1週、山小屋一泊のツアーに参加した。バスツアーで結構ハードスケジュールだったが、参加者はベテランが多く天候にも恵まれてとても良い経験だった。2回目の今回は初回と同じツアーは満杯で、阪急交通社のツアーを利用。登り・下り、それぞれ山小屋一泊のゆったりペースのスケジュールだったせいで、41名の参加者の多くが女性か老夫婦。私は一人仲間からはずされた感じの参加で、往きも帰りも黙々と歩き続けるよりなかった。

29日夕方、富士五合目・吉田口到着、七合目“花小屋”に着く頃はヘッドライトが必要な程真っ暗

   吉田口で最終日に必要な風呂グッズや登山に不要な持ち物を預けて午後4時30分過ぎ登山開始。薄曇りで風もなく、なかなかの登山向きの状況。しかし現地のツアーコンダクターの方針でやたらと休憩が多い。休憩の都度バックを降ろし、座った状態での水分とカロリー補給を指示される。高齢者や初心者が多いから仕方がない。初日宿泊予定、七合目の“花小屋”に到着する頃はすっかり日が落ちて、ヘッドライトがないと歩けない状態。この時間帯での登山者はさほど多くはなかった。

ぎゅうぎゅう詰めの寝床にびっくり

   たたみ1畳のフトンに二人が休む非生理的環境で休めたものではない。折角持っていった着替えも出来ないが、幸にもこの時期の空気乾燥のためか、ほとんど汗はかいておらず、下着も乾燥している。不思議とこんな状態でも朝方数時間は眠っていたらしい。強風でガタガタ揺れる壁・屋根・窓枠の音で目が覚める。雨は降っていない故、御来光が拝顔出来るとの事で午前4時過ぎには皆屋外へ。屋外はフリースを着ても強風と低温で寒さが身に応える。それでも雲間から上がる日の出で一気に明るくなってゆく雲の向こうの稜線の美しさに、皆は大歓声。

強風が続き予定時間に出発できず

   早い朝食(いなり寿司と味噌汁)をとって出発を待つが予定時刻の午前6時となっても強風吹き止まず。とにかく次の宿泊予定、八合目の東洋館まで行くこととなり、フリースの上に更に雨具を着込んでマスクで顔を覆いサングラスをして出発。この間は滑りやすい岩場が続くため、通常は許可されないブルドーザの通路を利用させてもらうこことなったが、それでも風で飛ばされそうになる。

八合目“東洋館”は雲の中、靄と霧雨・風で登山続行のチャンスをうかがう

   東洋館で登頂に不要な荷物をさらに残して、風の具合を見ながら出発。足場悪く風も強いためやっとの思いで八合五勺から九合目と進み、ここで更に山頂を目指すグループと登頂を断念して引き返すグールプに別れる事となる。

24名が登頂めざし、うち5名が70歳以上

   強風で何度も断念しかけながら、這うように岩場を超えて頂上直前の鳥居をくぐり、やっとの思いで吉田口終着点である久須志神社の標柱にタッチ。登頂目指した24人は怪我もなく、うち5人が70歳以上との事で霧雨の中を万歳三唱。勿論視界が悪くまた予定時間も過ぎているため、“お鉢巡り”は中止。休憩所の東京屋で、“富士山頂上”と書かれたお札を証拠に購入。40分ほどの休憩後、下山にかかる。

滑りやすい岩場を超えて、スレートの舞う下山道を一心不乱に東洋館を目指す

   現地リーダーの指揮が良かったのか、滑りやすい大きな瓦礫の岩場を超え、さらに細かいスレートが風で舞う下山道を一心不乱に歩いた。そして特に事故もなく二日目の宿“東洋館”に無事戻る事ができた。東洋館の夕食はメンチカツと米飯・味噌汁。寝床は薄手の寝袋でやはりタタミ一枚に二人が横となる詰め込み状態。登頂の成功で皆興奮気味であったこともあり、とても眠れたものではない。

最終日8/31夜半から早朝も強風が続く

   小屋の天窓が強風で開いてしまい、寝床の上まで外気が届く状態。しかし寝袋は暖かく案外顔に当たる風は心地よく、寒さはまったく感じない。夜間ずっと風が吹き荒れ、小屋が壊れないのか心配となる。午前4時過ぎ、やはり御来光がみられるとのことで暗い中を起き出す。しかし屋外の風の強さに思わず怯んでしまう。富士山の御来光はすばらしい。この日も東の空全体が濃いオレンジ色に染まり、更に日の出と共に空全体が明るく下界を照らし出す光景にうっとりとし感激。

一方、この日も小屋の利用予定者が多いとの事で、簡単な朝食を済ませてほぼ予定通り午前6時には早速下山開始

   八合目・東洋館からの下山路は大きめのスレートが続く。大きめのスレートの上は滑りやすく足下注意の連続。また細かいスレートになると今度は足を取られて疲労が激しい。風強く休憩をとるような場所もなかなか見あたらない。グループの一人(女性)は疲労激しくザックをコンダクターに背負ってもらい、下山継続。また途中、外国人登山者の一人が捻挫して歩けなくなり、ブルトーザの救援を要請(3万円とのこと)。

正午近く無事吉田口五合目に到着

   到着した五合目登山口の吉田口でも風は強い。しかしその暑さには閉口。ここで預けた荷物を整理し、山中湖温泉(紅富士の湯)に向かうバスを待つ間、ソフトクリームを食べた。そのおいしかった事。山中湖の温泉で汗とほこりとを落とし、頭を洗って、ひげを剃り、真っ黒になった耳孔も洗って着替え。これですっかり生き返った。

   “お鉢巡り”は断念したが、すばらしい御来光を二度も拝顔できた今回も印象に残る富士登山だった。事故なく戻れたことに感謝。

2013年7月25日木曜日

[IS-REC]奥信濃・苗場山登山紀行

~前日徹夜の山行はきつかった~

   

7月12日早朝午前3時、激しい雨の降りしき信州苗場山コラージュる中、マイクロバスにて一行11名で出発。国道7号線を下り、途中いくつかの自動車道をまたいで関越自動車道・塩沢石打ICから国道353、405号を通り津南町経由、秋山郷へ。ここから目指す小赤沢の苗場山3合目登山口に向かう。

到着は12日午前11時過ぎ。

   ここ登山口の天候は、どしゃぶり秋田と異なり、雲間に少しの青空と陽射しもみられほっと一安心。でも折からの異常気象の影響で湿気多い標高1310mとは思えない、蒸し暑さを感じる。予定より遅れ気味のためそそくさ支度して、午前11時40分登山開始。信州苗場山急斜面しかし気持ちは急くが私自身を含め仲間は皆、寝不足と足場の悪い登山道でいつになく元気がない。運転していたTさんは無理がたたったのか、メマイを訴えて早々に休憩する始末。結局、いつも元気で健脚のスーパー老人(なんと78歳!!)Kさんと私を含めた数人が先導する形となって、仲間を気遣いつつゆっくり前進。

    4合目の水場を過ぎる頃から道はさらに険しく、両脇はクマザサ、岩場続く湿気のひどい道なり、しかも谷間の道。ヤマブヨ多く虫除けもほとんど無効。両手首、額から耳の当たりが何カ所も刺されてしまった。

信州苗場山の草花   急斜面で鎖やロープの下がる7合目から9合目をやっとの思いで這うように登り詰めると、広大な湿原・池塘が拡がる木道に至る。ここでほっと一息。辺りを見回すと、大シラビソの林に囲まれたいくつもの池塘、湿原、そして残雪の雪原が拡がっている。木道沿いのお花畑はイワイチョウ・ワタスゲ・チングルマなどなど。その中でも感動したのはコバイケイソウの群生。数年に1度しか咲かないという花の群生がいたる処に広がり夢見る想いである。そして木道は頂上に向かって延々と続く。

   途中残雪に覆われて道を失う恐怖感にもかられながら、午後4時過ぎ頂上ヒュッテに到着。山小屋は新しく意外に清潔で寝床で立ち上がれる程のスペースがある。ヒュッテから500m程の頂上に出かけ、一等三角点にタッチ。小屋に戻ってから、遅れた仲間を迎えに行き、何とか全員落伍者なく登頂成功!! 汗ビッショリの衣服を下着からすべて着替え、カレーライスの夕食を済ませて午後7時過ぎぐっすり就寝。13日翌朝、御来光をみるべく午前4時過ぎ起床。しかし厚い雲に覆われた山の天気で朝陽は結局顔を出さず。午前8時過ぎ下山開始。下りも想像以上にきつい。下信州苗場山雄川閣山後、秋山郷の木工所に併設したレストランで山菜おこわを食べ、午後3時に切明温泉・雄川閣に入る。ゆっくり温めの温泉につかって汗を流した。

振り返って

  今回の奥信濃・苗場山登山は寝不足もたたって本当に辛い山行だった。しかし登り詰めた後の大湿原と池塘、お花畑、そしてなんと言っても、あのコバイケイソウの群落は忘れられない思い出となった。事故なく無事戻ったことに感謝!! そしてマイクロバスを交代で運転したリーダーのI会長、Tさんに感謝!!

2013年4月19日金曜日

[IS-REC] 熊谷達也『烈風のレクイエム』~自らとの接点で読む

烈風のレクイエム
2年前の3.11以降、抗いようのない苛立たしさを感じながら、この自然災害や人災のなせるわざと真正面から向き合おうとする者がいる。熊谷達也は東北・仙台という私の第二の故郷で活躍する直木賞作家。本書『烈風のレクイエム』の舞台、函館はこれまでも彼が何度か作品の舞台としている東北と海峡を挟んだ北海道南端の港町。函館は私の生まれ故郷であり、彼自身と本書を含む彼の小説の舞台とには抜き差し難い自分との接点を感じている。そして本書モチーフにある函館大火、洞爺丸沈没という私の記憶とも重なったもう一つの接点、これが普段、小説など読みつけない私にも本書を手に取るきっかけを与えてくれた。

函館大火・空襲は祖父、洞爺丸事件は父から聞いた幼い時分の記憶と重なって


故郷函館。私の祖父は戦前から戦後にかけた警察官吏、父は戦後長くこの地で警察官として奉職していた。私の幼少時の記憶に函館大火や函館空襲、あるいは洞爺丸事件がどう残されたか、定かではない。幼少時祖父母の家にはよく出入りし、寝泊まりすることもあったので孫相手に語る祖父の話しを聞いたのかも知れない。洞爺丸事件については本書にもある函館近郊、七重浜の状況を遺体収容に当たった父から直接聞き、その記憶は幼少ゆえに鮮烈であった。しかし最も記憶に焼き付いたのは、祖父母の家にあった各種、函館市史のグラビア写真の大火や空襲、洞爺丸事件。それらの普段見つけない写真を子供ながらに固唾を呑んで眺めたためではないかと思う。

函館市史に記録される災害史と『烈風のレクイエム』、泊敬介の数奇な生涯


泊敬介、潜水作業船「光栄丸」船主。彼は父から受け継いだ本業の海産潜りに始まり、その後の社会状況から徐々に潜水工事、船底清掃、時に沈没船のサルベージなどの仕事を手がけるようになる。第一部、「喪失」で物語は函館大火の頃の北洋漁業で賑わう函館港とそこでの潜水による船底清掃作業の話から始まる。独特の地形とそこを吹き荒れる季節風でそれまでもしばしば函館は大火を経験してきた。その大火の折、敬介は持ち船「光栄丸」管理のため、連絡船乗り場や駅に寝泊まりして自宅に帰られなかった。自宅のある住吉町、谷地頭に発生した大火災。暴風による火の拡がりのすさまじさは緊迫感持って語られる。結局、大火で実母と妻を失い、愛娘は行方知れずのままとなる。その後、第二の災厄である函館空襲で敬介自身、大怪我で足に重傷を負うこととなる。戦時下、ないないづくしの函館病院。そしてその入院生活(当時の面影残す市立函館病院は私の医者になりたての研修病院であった!!)。函館大火で逃げ惑う火中から助け、結局、同じ身上から再婚した静江の献身的看病の甲斐あって重い後遺症ながら仕事に復帰する敬介。また、大火で助け上げ、自らの子として育てた伸一郎は軍隊で特攻ながら一命取り留めて軍隊から戻るものの、敬介との間で軋轢を繰り返す。しかし彼らの数奇な運命は再び固い家族の結びつきへと変わってゆく切っ掛けとなる。息つかせないその後の話しの展開、迫真迫る洞爺丸沈没後の遺体引き上げ作業。著者・熊谷の文献に基づく綿密な検証とその筆致から、私も幼少時に脅威の眼で眺めた函館市史のグラビアを再び鮮明な記憶として思い出していた。
20年の半生、比較的短いこの間に、敗戦という大きな歴史の転換点を境として戦前の函館大火、そして戦後の風台風による洞爺丸沈没。敬介とその家族がまさに翻弄され続けたこの舞台立て、港町函館。物語は主人公・敬介とその家族の壮絶な半生として展開され、まさに書名通りの「烈風のレクイエム」となって最後の頁まで飽きさせずに読者を引っ張っていったように思われる。是非一読をお勧めしたい。

2013年2月21日木曜日

[IS-REC] 時には『ブータンしあわせ旅ノート』(岸本葉子著)

2011年、すなわち一昨年の夏期休暇を目一杯利用して念願のブータンを旅行した。ブータンは空港のあるパロ、首都ティンプー近郊の西ブータンを巡るのがやっとの日程だったが、さらに東へドチャラ峠を超え、チミ・ラカン、ブナカまで足を延ばすことが出来た。駆け足旅行で地元ブータンの方々との交流はほんのわずか。しかし1日がかりでタクツァン寺院に登ったこと、またブータンの方々の暖かい眼差しや親切心を知り、人なつっこい子供達との交流、その笑顔をカメラに収めることも出来た旅行だった。

岸本葉子著『ブータンしあわせ旅ノート』が2012年春改題出版

1999年出版の旅行記改題だから、岸本さんの旅行から 私の旅行まで10年一昔の歳月が経っている。この度の出版で著者はそのあとがきで、「変わるもの、変わらないもの」と題し、この間の時代変化、当時のしあわせ一杯旅ノートが描いた『幸せの国、ブータン』の有り様を批判的に語っている。

岸本さんの旅ノートに描かれたブータン~敬愛される国王、厚い国民全体の宗教心、大家族でつましく生活しながら当然のしあわせを享受する人々~

本書で触れられるブータンはすでに10数年前のこと。しかし一昨年私自身が旅行で垣間見たブータンの国情・旅行事情、現地の人々の生活に大きく変わった印象はない。東日本大震災の地を昨年ワンチュク国王夫妻が新婚旅行先に選んで来日して以降、日本でもすっかりブータン”ブーム”が起った。そして現在のブータン国情についても再三テレビなどで放映され、近代化の波が押し寄せ、その国情や国民生活が大きく変わろうとしていると報じられた。携帯電話やテレビ・インターネット普及など、国民の消費生活を含む生活文化も確かに大きく変わりつつあるのだろう。しかし岸本さんが訪れ、私が旅行した10数年の間でも良い伝統や生活文化は変わらず続いてきたのもと確信する。国外から押し寄せる消費文化を批判的に受け止める教育水準や厚い宗教心、狭い山岳国家、農業主体の大家族母系社会、立憲王制国家に移行しても厚い国王への信頼と宗教と政治が上手に一体化した国家体制、これらの要素が一体となって小国ながら強い独自性と文化国家としての矜持を持ち続けている。国民一人一人の生活レベルは現在も決して高くはない。しかしこの国を訪れる異邦人に対して決して笑顔を絶やさない彼らは自分の国に誇りを持ち、その生活に自信を持っていることは間違いない。

「ブータンは今でも幸せの国でした」が私の印象


この本を読んで、私のブータン駆け足旅行に欠けていたブータン国民の生活事情がしっかり呑み込めた。そして私が垣間見たブータンは今でも間違いなく「幸せの国」。健康もお金も時間も必要!! だが、ますますブータン再訪を期する気持ちが高まった次第。今度は余裕持って東ブータンを訪れ、またそのトレッキングに挑んでみたい。
s-ブータン旅行スナップ
s-ブータンの子供達


2012年11月14日水曜日

[Med-REHA]わが回想に生きるひとびと~SSさん逝く

        15年来の付き合いだったSSさんが脳卒中再発後の誤嚥性肺炎・呼吸不全で亡くなられた。享年81歳。

      私と最初の出会いは、彼が64歳で右被殻出血を発症した時に遡る。

     彼は急性期治療を含め、その後のリハビリまで私の受け持ちとなった。いわゆる土建屋さんで医者嫌い、それまでろくに健診なども受けず、酒たばこは欠かせない生活を送っていた。

     日常のわがままをそのまま病棟生活に持ち込んだものだから、看護師や訓練士とトラブル続き。見舞いに訪れる奥さんもスタッフにはなはだ恐縮していた。それでも昔気質ゆえか、医者の私には絶対的に従ってくれた。

      耐糖能障害、虚血性心疾患、高血圧と生活習慣病の揃い踏み。その治療と生活指導、杖と装具使用での身辺処理自立で自宅退院した。

      しかしその後も、糖尿病性網膜症で光凝固治療、狭心痛発作、腰部椎間板ヘルニア手術など、続発症オンパレードでその都度の対応に私自身も大いに勉強させられた。

   発症から3年後、最愛の妻を膵臓ガンで失い、特養に入所。仕事を止め、子供もない孤独な生活。この大きく急激な状況変化で負けん気の彼もうつ状態となってしまった。だがその苦難も何とか乗り切った。飲酒・喫煙は私の説得でも止められなかったが、その量は少量たしなむ程度となり、入所先での生活にも徐々にとけ込んでいった。

   月一度の外来通院とその際のリハビリを楽しみにしていた。当初多量に使わざるを得なかった降圧剤や経口糖尿病薬も減量、スタッフへのわがままな言動、うつがひどかった時の「死にたい!!」の言葉も徐々になくなり、受診時に面倒みる施設職員や病院スタッフへの言葉掛けも好好爺そのものとなった。

   今年10月最後となった受診で血圧はそれまでになく低め、降圧剤を更に減量して帰した。その数日後、出勤してまもなく施設から電話あり、言葉が聞き取れなくなっているという。血圧はやはり低め。脳卒中再発としてすぐに救急病院受診を促した。

   その後の経過が気になっていたが連絡なし。11月初旬、香川の学会から戻った13日、施設からA4封筒に入った包みが届いた。前医とそのスタッフからの紹介状が同封され、急性期病院からは11月1日退院したという。その後、施設の食事で流涎とむせ込みがひどかったらしい。微熱が続き、嘱託医から抗生剤点滴の指示も出たが、結局11月10日呼吸困難となり、永眠したという。

   経過を知って別な対処もあったように思われ残念であった。しかしあまり苦しむことなく逝ってくれたとすれば、これも彼の本望だったかもしれない。

   今頃、あの世で妻と久しぶりに再会しているかも知れない。彼の嬉しそうな顔が浮かんでくる。合掌。



2009年12月6日日曜日

K君のこと

 大学を出て医者となり、ただその道を駆け通しの生活だった。そして何の実感もないままに今年はとうとう還暦を迎えた。臨床の一線に身を置く医者の生活は誰しもこんなもので、それを支える家族に相当の犠牲を強い、自らを振り返る余裕なく、無論来し方の思い出に浸る事もないのが当たり前と思っていた。そんな私も今年、小学校や高校の同窓会案内をもらって、還暦という人生の区切りに少しは里心を取り戻したようだ。久し振りになつかしい面々と旧交を交わし、互いの過去の接点から今に至る人生航路を振り返るよい機会となった。小学校から高校と、郷里の思い出に直結した日々をなつかしく思う一方、今の生活のベースとなる大学在籍中の生活は、いわゆる学園紛争と重なり、クラス・同期生のまとまりも持てない、ある種のにがにがしさを禁じ得ない状況であった。教養部から医学部に進学した昭和47年、私は昭和舎のお世話になることとなった。この舎生時代を振り返ると、まず私は同室であったK君とのことを思い出す。入寮当時、未だ学園紛争の影響が色濃く残る時期であり、そこで生活する寮生の立場も多種多様であったはずだが、寮の諸先輩はみな紳士的で大人であった。寮生活1年目、一部屋二人での生活が原則で、私は教養部時代から親交あったK君と同部屋としていただいた。その頃、私は医学部サークルの社会衛生部に所属し、K君はセツルメント活動を行い、同期のクラス仲間とは、教養部の頃から「万(よろず)研究会」という社交クラブのようなものを作り、雑文集を発行するなどの活動をしていた。K君とは時間的に余裕のある教養部時代にともに行動し話す機会も多かったが、寮生活では同室であるにかかわらず、せいぜい帰って寝る時に一言二言の言葉を交わすか、互いに背を向けあって試験勉強するかの生活で、青春時代特有の高邁な議論をかわしたり、互いの将来や人生設計を語り合うことは皆無に等しかった。彼の実家は仙台近郊の小牛田町(現・美里町)で、時折実家に戻って持参するトウキビや餅・菓子などご馳走になるのが私を含む同期舎生の楽しみであった。K君は、事に慎重で何事にも用意周到、学科の試験もほとんど1回で合格した。私は彼の小さな字で最大漏らさず書かれた講義ノートを借りて試験勉強に充てた。その人一倍慎重そうな彼が予想だにしない学生結婚をして、寮を離れたのはまだ同室であった学部1年の11月であった。記憶に間違いがなければ、医学部学生食堂の二階を借りて友人たちとささやかな結婚を祝う会をやった。Kは未だ学生であり、その後の生活に相当の艱難も想像されたが、奥さんとなるNさんは保健師で明るく、自信に満ちた印象であった。翌年、一子を設けて寮にも遊びに来たが、彼が数周りも人として成長しているのを実感した。しかし当時実体験のない私は、子を設けて結婚生活を送り、さらに学生として日々を送る彼の大変さに思いを至すことは出来なかった。医学部時代最後の冬、K君は動静脈奇形破裂によるクモ膜下出血を来たし、長町分院(広南病院)に運び込まれた。親友たちと連れだって病院に赴き、我々が見舞った時、彼はレスピレーターに繋がれて昏睡状態にあった。手術適応があるか否かは微妙であった。我々は交代で付き添い、助かってくれることを祈った。数日遅れて鈴木二郎教授の執刀で開頭術が行われた。しかし救命すら困難な状況であった。友人のKは帰らぬ人となり、実家の葬儀では、気の張った奥さんの表情と棺のそばを走るお子さんの姿だけが私の脳裏に焼き付いた。卒業試験と国家試験を前にした慌ただしさの中で、その後K君ご家族の消息を訪ねたり、実家にあるはずの彼の仏前に参る機会を持てなかった。K君と私は、教養部の学生運動で行動をともにし、昭和舎の一時期寝食をともにした間柄であった。卒業直前に病死した彼とそのご家族の無念さを思うと、当時の私はその気持ちを少しもフォローできていなかった。そして還暦を迎え、遠い過去となったはずの昭和舎舎生時代を振り返る時、医師になりきれずに他界したK君のことが何よりも鮮明な記憶として蘇ってくる。卒業後、私は脳外科を中心に外科系や脳神経系の基礎と臨床を経験した。現在はリハビリテーション医として地域医療に取り組んでいる。K君もあのような不測の死がなければ、今頃私以上に社会と接点の多い臨床医として活躍していたことだろう。昭和舎の頃の辛い思い出として、K君の事をここに記し、彼への追悼としたい。合掌
2009/12/06(日)

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