特集ドラマ 『極北ラプソディ』 をたまたまTVでみたこともあり、書店で見かけた村上智彦氏の本書「医療にたかるな」を一も二もなく購入した。北海道は私の故郷でもあり、著者が財政破綻の街、夕張で病院再建に当たる以前に勤務していた瀬棚町は私の小学校時代に過ごした街でもある。そんな縁もあって、本書を一層親近感をもって読んだ。
本書の内容を“時に過激に過ぎる攻撃”と著者は紹介するが・・
著者は医師を志す以前、薬科大学を卒業して薬剤師として病院に勤務。そこで「検査漬け」「薬漬け」医療の現実を見たという。この現実を変え、自分の考える医療を実践したいという信念に従って、改めて医師を志し医科大学を卒業、32歳で医師免許を取得した。その後、自治医科大学地域医療学教室、五十嵐正紘教授の下で研修し、38歳ではじめて地域医療を故郷北海道で経験することとなる。
彼の初任地は当時地震で有名となった奥尻島の対岸、瀬棚町。瀬棚町も言うに及ばずひどい医療過疎地であった。しかし赴任当時、ここは高齢者医療費が日本で最も高い町だったという。医療費が高いのは重病が多いからではなく、高齢化に加えて、住民個々の健康意識が低く、生活習慣に大きな問題あり、一旦病気になると過疎に関わらずコンビニ医療や医療者へのおまかせ医療、不必要な長期入院がまかり通っている。この現実が高医療費の元凶と喝破する。この瀬棚町で時には行政をも相手に医療費低減につながる予防医療の大切さを説いて実践した。必ずしも住民の健康につながっていない高額医療を低減するには人口構造を含む社会環境が大きく変化しても一向に変わらない様々な因習やしがらみ、旧来の仕組みがもたらす医療への“たかり構造”を含めて闘わなければならない。著者はこのため、時に過激に過ぎる言葉も発しているという。しかし本書の中では著者の言葉の言い過ぎと思える所はまったくと言っていいほど見当たらず、逆に大いに共感できる主張が多いと感じられた。
地域包括ケアの必要性
医療の対象が高齢化してくると、病院で行う病気の「キュア」とそれに続く福祉で行う「ケア」との境目がぼやけてくる。この点はリハビリ診療を担う私自身の立場からも痛感している。医療と福祉、お金の出所から言うと、医療保険と介護保険であり、この一方でしか対応出来ないとしたら、その両者に人的にもコスト面でも無駄ができ、なにより対象となる地域住民のニーズに答えられないこととなる。著者は瀬棚町での経験、そして夕張での経験から住民への健康教育と予防医療の大切さを再三再四強調する。そして、“地域包括ケア”として医療と福祉を一体化した制度再編と、病院でキュアを念頭に置いた“闘う医療”から地域でケア(介護・福祉)と一体化した“支える医療”への転換の必要性を訴える。住民への予防医療と健康教育は、“病院へ行って注射してもらえば当座の痛みも病気も良くなる、生活に支障あれば当座病院で面倒みるケア入院に期待する”、といった住民の医療への“たかり”意識を変えるために必要なのだ。そんな旧来の意識のままにフリーアクセス可能な医療機関を利用すれば医療者は疲弊し、医療費はどんどん高額化するのは当然である。
夕張で見えた“既得権益”死守の政治・行政、“責任回避と権力欲“の医療者、そして市民という名の“妖怪”
生活基盤である地域が崩壊すると、それまで見えなかった様々な矛盾が明瞭化する。医療についても、そこに関わる医療者や政治・行政、マスコミ、そして守るべき対象のはずの市民もすべてが、その大小問わずエゴイズムの本質をさらけ出す。それは人の持つ“醜い側面”なのかも知れない。著者はそういったエゴと闘いながら、人それぞれが自立する大切さを説いている。
医療費は高い=「医療亡国論」のデタラメ
著者の地域医療実践経験から医療費の無駄遣いや地域住民の医療への“たかり”構造が強調されると、医療費が高い=「医療亡国論」が闊歩する。しかし日本の医療は他の国々比べると明らかに数少ない医療者の自己犠牲的努力で国民皆保険制度が維持されている現実がある。こういった仕組みのない差別医療がまかり通るアメリカ型医療に著者は明確に反対する。そして「医療亡国論」のデタラメ振りにも言及している。
これからは「闘う医療」から「支える医療」
高齢者医療は、“人すべて死すべき運命”にある事を前提に組み立て直す。そして病院で「キュア」を求める「闘う医療」から地域で「支える、支え合う医療」に代えてゆく努力と必要性がいま求められている。先頃、2040年の日本各地域における人口構成推定値が公表された。本書で示された夕張における著者の地域再生や医療再生へ向けた実践的経験。この経験は、今後の日本全体が変わってゆくべき医療・福祉のあり方にもひとつ解決の道筋を示すものではないだろうか。
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