戦後70年を社会思想的にどう区分するか、そのヒントを提供
昨年暮れ、12月20日放送のNHK文化講演会で大澤真幸氏の講演をはじめて聴いた。タイトルは『ふたつの東京オリンピック~理想の時代から不可能性の時代へ』。 この講演では過去(1964年)と未来(2020年)、二つの東京オリンピックが日本社会、日本の人々にどう映ったかを比較する。その目的は彼が主張する戦後から現在までの時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」に3区分して考える合理性を訴えることだった。地球的規模で起こる自然災害や人災、世界・日本という国のレベルで生じている解決困難な政治・社会問題が山積し、その解決の糸口を見出せず不安一杯の現代。この現代社会を今日的にどうとらえたら良いか、それを知る何らかの道しるべが欲しかった。この講演はその道しるべとなる何かを語っていた。そして著者の主張を詳しく知りたい欲求にかられ、本書『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)を手にとった。
「理想の時代」の「1964年東京オリンピック」に対して、現在の「不可能性の時代」がむかえる「2020年東京オリンピック」
二つの東京オリンピックを素材とした講演では、「1964年東京オリンピック」はその後の高度成長期前哨に当たる時期開催で新幹線開通などに象徴される夢あふれ、人や社会にとって理想が明確な時でり、著者はこの時期を「理想の時代」と呼んだ。一方これから待ち受ける「2020年東京オリンピック」は開催決定まで招致反対世論が多く、また招致決定後も決して関心が高いとはいえず、開催に反対ではないが積極賛成でもないという雰囲気で、今も全体醒めた印象はぬぐえないという。そしてこの二つのオリンピックへの眼差しから、現在を「不可能性の時代」と呼び、戦後「理想の時代」から現在に至る日本社会の過去・現在・未来を俯瞰している。
本書『不可能性の時代』で語られたこと
戦後70年に当たる現在について、さまざまな視点からマスコミが取り上げている。しかし本書「序」でも触れるが、この“戦後”という時代区分、言葉が未だ活きているのは日本のみである。そこには“先の大戦”をきちんと総括してこなかったツケが色濃く影響しているのは間違いない。本書の著者は敗戦という戦前・戦後の大きな断絶がこの日本では実際のところ精神史的に連続したものとなっていると述べ、柳田國男や小林正樹の述懐を引用している。戦後すぐから1970年頃までが「理想の時代」である。「理想の時代」では敵国であったアメリカを手本とし、またその価値基準についても第三者アメリカを審級とする時代である(これは今もあまり変わっていないように思える)。
国民全体は貧しくとも映画「ALWAYS三丁目の夕日」に表現されたように明日を信じ、理想めざす人々であふれていた。1970年前後に安保改定や高度成長の終焉があり、「理想の時代」は終わる。次いで1970年以降の「虚構の時代」である。なぜ「虚構の時代」なのか? 著者は社会風俗や様々な少年の起こした猟奇事件、オウム真理教事件、「オタク」現象などを引用しながら時代の「虚構性」立証を試みる。
「虚構の時代」から「不可能性の時代」へ
「虚構の時代」の終わりは1995年地下鉄サリン事件に象徴される。その後は現実への回帰と、逆に反現実への耽溺という全く相反する方向に分裂する。そして現在の「不可能性の時代」へと移行する。この「不可能性の時代」は「リスク社会」でもある。「リスク社会」は環境問題やテロなどの社会的レベルから家族崩壊・失業・貧困といった個人的レベルまでさまざまなリスクにとりつかれた社会である。その課題やリスク解決に先は見えていない。というよりそういった課題解決は不可能にみえる時代なのだ。著者はこのあたりの例証をさまざま試みる。しかし発刊2008年当時のレベルでは論点整理が不十分だったのか、正直なところ私には難解すぎてその説明についていけなかった。
著者12月の講演は分かりやすかった。この戦後すぐから現在に至る時代区分はなかなか魅力的である。是非その社会思想史的背景をもう一度わかりやすく次作の形で解説・発表してもらいたいものだ。
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