師走のあわただしさをすべて追いやってしまうほどの暴風雪で本格的な冬を迎えた去る暮れ12月、地元紙の死亡公告でT.F.さんの唐突な死を知った。
つい数ヶ月前まで外来に通院し、妻や職員に大声を上げる事があっても、主治医と認識する私には猫のように大人しくなる彼は享年66歳。私との付き合いは50代後半の左脳梗塞による右麻痺と失語で入院して以来、もうすぐ10年目となるところであった。
若い頃からの多量飲酒・喫煙習慣の影響で、41歳で前交通動脈瘤破裂クモ膜下出血を罹患。手術で幸いにも見かけ上、何の後遺症なく仕事に復帰したとき、すでに高血圧・糖尿病を指摘されていた。 59歳で私と出会うきっかけとなる、脳卒中は心房細動に伴う心原性脳塞栓であった。その急性期治療が功を奏して不全脳梗塞(まだら梗塞)、新たに加わった障害は失語のみとそれなり幸運であった。
爾来、元々土建業者で短気な性格な上に、思うように意思表示のできないイライラがいつも募るようになった。ご家族、特に奥さんには恋女房に関わらずその頃から辛く当たる事が多かった。当時、リハビリで運動麻痺はよく改善した。退院後、一時再び仕事に復帰。足りないところは家族に支えられながら元気な日々を送っていた。だが不摂生となる生活がその後も続いた。心房細動に伴う脳塞栓を何度も繰り返し、徐々に障害は重度化した。屋外に杖と装具で散歩できる間、家族は別の心配があった。自宅で制限している食品、特に塩気の多い漬け物などを買い食いするのであった。心身の障害が重度化して、そういったことも出来なくなり家族に、“死にたい”と口走るようになった。一時、神経精神科にも紹介し入院治療を受けた。認知症が進んだせいか、家族に対する暴力行為があまりきかれなくなった。一方最近は腎機能が悪化し、顔の浮腫や易疲労が目立つようになった。総合病院の内科に管理をお願いした。抗凝血薬ワーファリンは継続されていたという。
師走9日夜、いつものように早めに床につき、その後も妻と一言二言、言葉を交わしていたが、急に全身を震わせ、視線を中央に固定した。以前にも同様な経験のあった妻の判断で直ちに救急車を依頼した。救急病院で、診察・検査の結果、“症候性てんかん”の診断で経過観察入院となった。しかし翌日には集中治療室に入り、元々あった右片麻痺に反対側麻痺が加わって四肢麻痺状態となったことを説明された。意識はその後も意外にしっかりしていた。付きそう妻に、それまでのわがままを詫びる言葉がかけられた。呼吸障害が徐々に加わったが人工呼吸器は使用しなかった。同12月25日永眠した。最後の状況を涙ながらに話した妻は、特に脳卒中発症後の苦悩を見据えてきただけに夫がこんなにやすらかに最後を迎えられた事を十分納得して受け入れていたようであった。
(2010/01/12記)
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