2014年1月25日土曜日

[IS-REC/BOOK] 鈴木宣弘著『食の戦争・・米国の罠に落ちる日本』(文春新書927)

堤 未果著「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書)と合わせて読みたい一冊

先進国の中では食料自給率が最も低い日本。日本は国防面のみならず食料でも大きく米国に依存している。そして、地球規模での人口増加は近い将来、食料や水の不足を招き、大きな問題となることを国際機関や様々な識者、報道が伝えている。そして地球温暖化現象はこの事態を更に深刻化している。いまや、“食料は戦略物資”という認識に誰も異論はないだろう。以前読んだ堤 未果著の「(株)貧困大国アメリカ」で大きく紙面を割いた、グローバル企業による食の世界支配、鈴木の本書はさらに国際農学研究者の立場から「食の戦争」として食料自給の低い日本の現状に警鐘を鳴らしている。

生産力や“害虫に強い”遺伝子組み換え(GM)農産物の国際的市場支配と地場産業(伝統農業)への影響

堤や鈴木の本では、自然条件や“害虫駆除の農薬”にも強いGM種子が世界的に普及し、結果的に伝統的に栽培されてきた農産物が駆逐の憂き目にあっていること、農家は毎年このGM種子や農薬を購入しないと農業を維持していけない仕組みができつつあること、などを繰り返し指摘している。伝統農業や小規模地産農家が営々と維持し続けてきたその土地固有の農産物とその種子はGM農産物によって今まさに消滅の危機に瀕している 。

最近の新聞報道で、アルゼンチン首都近郊に予定されていたグローバル企業(モンサント社)のバイオ工場建設が地元農家や環境団体の差し止めを求める裁判で中止を余儀なくされたという。この工場の目指す目的はGM食料生産拠点であった。

じわじわ入り込むGM食料や飼料、堤や鈴木の本の中で、食の安全が担保されず、家畜飼料を含めてGM食料の危険性を指摘するデータや報道が情報操作により一般の目から世界レベルで隠されてしまっている様々な事実が示されている。

日本に浸透するGM作物とTPP

TPP交渉は昨年暮れに決着つかず、日本政府は今なお米を含む主要農品目について米国に譲歩を要求しているという(2014年1月21日付け朝日新聞)。しかし、歴史的に米国に従属し続けている日本政府が譲歩を勝ち取るとは到底考えられない。堤の“(株)貧困大国アメリカ”で明らかにされているように、米国政府自体がその政策決定まで国内のグローバル企業に金で買われ、牛耳られている。アメリカにとってのTPP交渉はアメリカで農業経営に直接携わる米国民の要求では決してない。鈴木はノーベル経済学賞学者のスティグリッツ教授の言葉を借りて、“TPPとは人口の1%の1%による1%のための協定であり、関係各国の国民大多数を不幸にするもの”と述べている。

日本政府が譲歩を引き出せず、かといって交渉撤退もせず、何らかのまやかしにより国民の目を欺いてTPPが妥結する可能性は高い。現在ですら大豆など、加工食品に用いられる輸入食材にはすでにGM作物が多く使用されている。牛肉のBSE問題についても米国の事情に合わせた輸入が大手を振ってまかり通っている。また、GM種子で作られた農産物や農薬が無制限に日本に入ってくる可能性も高い。TPP妥結の結果は、更に日本の食料自給率の低下と、地産地消の地場農業や畜産業を破壊し、“食の戦争”に敗れて、国民の多くが決して望んではいないはずの、マネー資本主義・グローバル化の波に呑み込まれる結果となりかねない。

食について日本はどう進むべきなのか?

本書の終章で鈴木は、“日本の進むべき道、「強い農業」を考える”と、本書のまとめにふさわしい内容で締めくくっている。農産物の価値をアップグレードして高価格設定でも地産の食料品を迷わず購入するスイスの事例。そのキーワードは、“ナチュラル”、“オーガニック”、“アニマル・ウエルフェア”、“バイオダイバーシティー”、だという。日本もこれに学ぶ必要があるというのだ。農業の国家戦略でも国内食料生産基地をフルに活かして質の高い農産品をセールスポイントに、その販路拡大を図る必要がある。“フード・マイレージ”や食料生産で必要な“水資源”をも考慮した地産地消運動などと連携して、国民全体から受け入れられる農業政策がいま求められている。そして、“食の戦争“に勝ち残り、食料自給率を挙げて、グローバリズムの波に抗するには、みかけのコストが安い輸入食品に手を伸ばさない、国産や地場の農作物、畜産物をコスト高でも第一に選択して購入する、こういった国民一人一人の価値基準や態度がこれからの日本に求められているということのようだ。

[Med-REHA] 雪下ろし事故にコメントを求められて

高齢者に圧倒的に多い頚損事故外傷関連入院

   今冬、秋田県内積雪は地域でその積雪量に大きな差のあることが特徴だろう。特に県南の積雪は例年以上で、このため屋根の雪下ろしに伴う死亡や重傷を負うケースの事故報告は絶えない。

  地元紙、“秋田魁新報”はこの雪下ろしに伴う事故について様々な報道やキャンペーンに取り組んでいる。最近、事故に関した2度の取材を受けた。電話取材と直接取材で、それぞれ小生のコメントの一部が引用された。取材を受けて強調した点は、

  1. 加齢に伴って、若い時分に比較して体力や運動機能が急激に衰えること、
  2. 衰えの程度に運動習慣の有無などで、個人差が大きいこと、
  3. 体力のうちでもその内容に一定の傾向があり、握力や背筋力、全身反応時間などに比べて、立位体前屈や平衡感覚・バランス能力低下が著しい事。立位体前屈程度は、身体柔軟性として表れる筋弾力性や関節可動域変化によって確認され、平衡感覚やバランス能力は閉眼片足立ち時間や重心動揺面積測定なとで示される。

特に動的バランス能力低下は加齢で著しい

  冒頭グラフは、過去5年間に我々のリハセンターで入院治療を受けた外傷事故関連による脊損や頭部外傷患者実数の推移を示している。センターの特殊性や立地位置などのバイアスを含むが、頭部外傷や頚損、すなわち首から上の受傷入院は圧倒的に高齢となるほど増加しているのがわかる。対照として提示している骨盤・腰椎部外傷はあまり世代差なく、その事例をみると、意図的な飛び下りや交通外傷によるもののようだ。冬季は、雪下ろし、年間を通じては屋内外での転倒が多い。雪下ろし事故と通ずるが、転倒事故で多い原因は、(酔って)自転車を運転し、自転車ごと転倒して頚損となるケースが多いこと。これは加齢によって低下する運動能力のうち、特に動的バランス能力低下が最も関係している。記事リポーターが強調するように、歳をとっても若いころと同じように体が動ごいていると錯覚する、“年齢と運動能力のイメージギャップ”が雪下ろし事故原因の背景にあることは間違いないだろう。交通激しい横断歩道を渡り切れるかどうかを判定する、秋田発の能力評価器械、“渡り上手君”の検査でも同じような結果が出ている。

高所作業など、歳をとったら行わないことに限る

2014年1月17日金曜日

[IS-REC/BOOK] 「増える高齢者虐待」(秋田さきがけ記事)から山田太一『空也上人がいた』(朝日新聞社)を思い浮かべた

2015/01/12、秋田さきがけ新聞記事「増える高齢者虐待」

経験不足ストレス原因
   介護を必要とする認知症や障害老人に対する介護家族による虐待が増えている。取り上げた記事は、家族によるものではなく高齢者向け施設職員が利用者を虐待した事例が増えていることを報じたもの。背景に経験不足やケアにかかわるストレスがあるとする。厚労省調査で虐待に関わった職員の年齢は20代から30代に多いという結果だ。介護現場の慢性的人手不足、認知症や高齢者の特質に対する経験や知識の不足からちょっとした事で虐待に走ってしまう事がある。こういった利用者と同じような患者を扱う立場から、行為の起こる状況・背景は容易に想像できる。

山田太一著『空也上人がいた』を大法輪の紹介で読む

『空也上人がいた』はたまたま数年前、購読していた大法輪でその紹介記事を知った。内容に興味が湧き、戯曲が多い山田太一の本について、それまでほとんど読んだことはなかったが、本書を早速取り寄せて読んでみた。

  『空也上人がいた』は著者山田の、“19年ぶり書き下ろし力作小説”だそうだ。内容の大枠はケアマネと若い介護職の青年との風変わりな愛をフレームに展開する一風変わった構成である。しかし取り上げている課題は上述のさきがけ記事と共通する、とても重い感じのもの。著者山田は、“七十代にならなければ書けなかった物語”と本書を紹介している。読み終えてその意味がわかったような気がしたものだ。 

上人像の目がキラリと光る・・・

  物語では主人公である介護職の青年が新たに在宅介護で担当した老人から指示されて京都に旅行することとなる。そこで老人からの携帯に誘導されながら、六波羅蜜寺の宝物館に入り、空也上人像を眺めるのだ。1メートル少しの小さな僧侶の像。小さく開いた口からは小さな仏像が6体飛び出している。しゃがんで見上げ、空也上人の目と青年の目が合ったとき、上人像の目がキラリと光る・・・主人公がケアマネの紹介で老人の在宅介護をはじめてまもなく、青年は退職した前の施設で起こしたエピソードに触れられる。老人はケアマネからその話を聞き、青年を雇い入れたのであった。「あんたがさ。キレてばあさんをほうり出した。ちがうか?」「なんでもなかったばあさんが何故六日後に死んだんだ」と。そして京都に行って空也上人を見上げた時の上人の“生きた目”が青年の心を打った。誰も責めてはいない、しかし青年の心に残る瑕疵を一緒に背負って歩いてくれるはずの空也上人、その上人を老人は青年自身に知って欲しかったのだ。

  特養ホームで老婆を死なせてしまった青年。介護する側の身体的・精神的疲労と、ちょっとした心の油断が産む職員の虐待。本書はこの重い課題をうまく物語に構成して読む者の心を揺すぶる衝撃作である。

空也上人のこと


  空也上人については、“貴族社会から武士が勃興する動乱の平安中期から末期に現れ、社会事業を行い、またひたすら念仏を唱える浄土教の祖”と言った高校日本史教科書程度の知識しかなかった。だが山田太一の本書で上人の人物像にとても興味を持たされた。上人のことを詳しく知ろうにも歴史的記録は少ない。しかし最近、歴史小説家、梓澤 要が『捨ててこそ空也』(新潮社)を書いている。そこで描かれる上人像、その史実はともかく、梓澤の本でますます空也上人に対して、“尊崇の念”を持たされた次第である。

2014年1月16日木曜日

[IS-REC]林 洋著『食と健康の話はなぜ嘘が多いのか』(日経プレミアシリーズ)

 

いたって真面目な栄養学の教科書

  本書は書名から私が期待した内容と多少異なって、いたって真面目な栄養学の教科書であった。その硬い内容を少しでも和らげ、飽きさせないよう漫談調で書かれている(その調子がやや鼻についてしまった)。しかしともかくも著者が食と健康情報の多くを敢えて『嘘が多い』と書名にするのは健康食品やサプリに確かな根拠なく“利いた”とか、“○○に効果がある”と宣伝するからだろう。私は本書を手に取り、こういった宣伝に対する真っ向からの反証を期待した。著者はしかし真正面からの衝突を回避し、正攻法で「どんなものが出ても、それを正しく評価できる能力が大切だ」と述べて、食(≒栄養)の生化学的知識をよく整理し提供している。その主だった点を紹介する(但し、内容が教科書的だからといってすべて正しいと思えない所のあったことを付記する)。

なぜ食の生化学が大切か?

  栄養は食べ物とほぼ同等の意味合いを持つ。しかし食べ物に表示される栄誉成分すべてが体に吸収される訳ではない。いくら口にする食品の栄養や健康効果を謳っても、また、いくら優れた食品組み合わせによる食事療法を実践しても、食が体に入りどう最終的に利用されるかを知らなければ、怪しげな食の宣伝文句にだまされてしまう。

ヒトの体組成と食の関係

  ヒトの体組成について分子レベルでみると、最大は水(全体重の60%)次いで脂質(20%)・蛋白(15%)、残るはミネラルと炭水化物。体組成を組織レベルでみると、最大は筋肉(40%)、次いで脂肪組織(20%)・血液・骨・皮膚・内臓と続く。栄養補給がこれら体組織の補充と生成にあたると考えれば、食(≒栄養)は主に肉中心で良いはず(著者はそうではないと否定する)。肉は特徴として、その含有蛋白の30%を強制的に体温上昇の熱産生に使うという。

三大栄養素の関係

  炭水化物は大雑把に言って体の動力源。生きるに必要だが補給がないと(絶食)、代わりに脂質や蛋白質から炭水化物が生成されその動力源を提供する。だから食べないと体構成蛋白や脂肪が減少して痩せる結果となる。


消化吸収

  この項で注目するのは、脂質吸収機構。脂質は消化酵素リパーゼや胆汁の力で小腸粘膜に吸収され、粘膜細胞に入ってから再び脂質となり、リポ蛋白の形でリンパ管を通り運ばれていく。このため脂質吸収と分解には時間がかかり、代謝に必要なエネルギーも炭水化物や蛋白質に比べて大きくなる。

糖質制限は体にいい?

  グリコーゲンは備蓄用ブトウ糖として肝や筋肉で作られる。しかしマラソンなどの長時間運動では最初の20分程度でそのすべてを使い果たす。その後のカロリー補給は脂肪組織から供給される中性脂肪がエネルギー源となる。この状態が続くと脂肪分解の不完全燃焼のためケトン体が持続的に発生し、組織に悪影響を及ぼす。糖の利用障害である糖尿病でも病態はほぼ同様である。


「酵素を食べても・・」


  遺伝情報はすべて蛋白質の設計図である。栄養素の消化や代謝に関わる酵素(蛋白質)をいくら食べてもそのままの形で利用される訳ではない。すべてアミノ酸まで分解され、あらためて身体に必要な蛋白質に再合成される。従っていくら酵素を食べても直接に体に利用され栄養効果を発揮する訳ではない。

微量栄養素(サプリ)


  ビタミンやミネラルなど微量栄養素は生体維持に必須。しかし微量で足りるはずであり、一般には不足は生じない。 

 

最後に私見:健康食品(サプリ)はホントに不要か?


  著者が本書で力説する通り食と健康の話、特に特定のサプリを売り込もうと目論んで書かれる情報には誇大宣伝や嘘も多いだろう。『未病』という言葉も生まれているように、本格的医療を必要とする前に大病を防ぐ努力が今求められている。厚労省が音頭をとった『生活習慣病』『メタボリック症候群』という用語も大いに普及して、必要以上と思われる薬がこれらの状態に対して処方されている。健康食品(サプリ)の中には医薬品として使われている類のものもあり、一定の効果をエビデンスとして示しているものもある。うたい文句に乗せられるのは困るが、それを服用する者がよく検討した上で上手に利用するのであれば、したり顏に、“ソンナノイミナイヨ”と言われてもまったく動じることはないのではないか?

2014年1月14日火曜日

[IS-REC] 島村奈津著『スローシティ』(光文社新書)と里山資本主義

藻谷浩介・NHK広島取材班著『里山資本主義』に続いて読む

  藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』を読み、続いて本書、『スローシティー』を読む。本書はこれからの時代を生きる政治・経済の思想的基盤のひとつ、ないしは同じ生活上の基本的態度を示すもの、さらに言葉を代えれば、アンチグローバリズムの立場を取るものであり、その実例をわかりやすく紹介している。

スローシティー

  さて、年齢のせいばかりではないが、あまりに慌しい社会の渦中に生活していると、最近はついつい“スロー”を冠する言葉に眼がゆくようになってきた。例を挙げればここに取り上げる、“スローフード”、“スローシティ”などである。特にこの、“スローフード”、“スローシティ”についてはいずれも相互に関係し合っているようだ。地域にあって、その伝統的食材と製法で時間をかけて提供されたその地自慢の一品料理、あるいはそういったものに価値を見出す態度が“スローフード”である。

  また、我々はどこへいっても地域性を感じさせない均質化された郊外や街中の光景にいつもウンザリさせられている。これに対して地域の歴史や文化、町並みを残し、時間がかかってもそこで生活することに誇りを持つのが、“スローシティー”である。“スローフード”、“スローシティ”、いずれも現在のマネー資本主義やグローバリズムに流されることなく実践を続けるため、同じ立場を貫く者が一緒になった運動として発展している。後者はいくつもの市町村が集まった独自のグループを形成。そして、“スローシティ”はより住みやすい町となるようにガイドラインを設けてそれを守る。例えば、週に1回、町の中央部の交通規制をしたり、町の特徴を守るためインフラ整備を行っている。また、“スローシティ”は、優良生産者とその利用者とが直接交流する機会を提供し、伝統食を守る努力もする。“スローシティ”は、特にイタリアで多く誕生し、そのほかノルウェーからブラジルまで、たくさんの町へ広がっているという。(www.cittaslow.net)

世界の均質化と闘う

  本書の副題、“世界の均質化と闘うイタリアの小さな町”、に示されるように、著者の島村は東京芸大卒業後からイタリア各地に滞在するノンフィクション作家。彼女が紹介する地域は大小様々なイタリアのローカル都市(人口や地域の大小によらず、“コムーネ”という)。そこでは人が生きていく上で必要な“人間サイズ”の街づくりが実践され、スピートの象徴、車社会から、人が歩き、会話する車を廃した街づくりに取り組んだ事例の紹介、若者が街を去り、また地震被災地で急激に進行した過疎化を逆手にとって観光客を呼び込み見事に再生を果たしている街の例などを紹介される。また彼らとの接点として日本の“スローシティー”候補についてもルポしながら報告している。“スローフード”、“スローシティ”の基に流れるものは冒頭で触れた、“里山資本主義”、アンチグローバリズムに共通するもの。“スローシティ”に象徴されるこのイタリア小都市に旅し、また生活することに憧れるのは、私だけではあるまい。

イタリアも日本も政治は三流(?)、市民は・・・?

島村の本書を読み終えて、日本人が好み、観光相手国としても最大級のイタリア、この国が奇妙に日本と似ていることに気づいて思わず笑ってしまった。すなわち、その政治と政治家の危うさ、評価は三流、そしてそこで暮らす国民と土地柄は一流・・・・

2014年1月11日土曜日

[IS-REC] 藻谷浩介・NHK広島取材班:『里山資本主義』を読む

小熊英二氏の論壇インタビュー、「自ら動いてネットワーク」の教えるもの

  2014.1.10、わが地元紙・秋田さきがけ新聞、文化欄で小熊英二氏は語っている。〝20世紀型の社会秩序が限界を迎えている・・・、都市部でも地方でも政治の支持基盤が機能不全に陥り、従来の利益誘導型政策でもその回復は困難となった。・・・また利益誘導するパイ自体がなくなったから、政治家(屋?)は国民の多くが反対する原発稼働継続にあれほど固執するのだ〟彼の言は、現在の政治状況を非常に端的でわかりやすくとらえている。そしてこの閉塞した政治と経済状況を打破する鍵は、〝地道ながら地域の人と人との様々な横のつながり、そしてその活動にある〟とあるべき将来展望を語る。

『里山資本主義』が版を重ねて読まれるている!!

里山資本主義  冒頭に紹介する『里山資本主義』は、 現在も多くの版を重ねている。楽天ブックスでは現在もビジネス・経済・就職部門で売れ行きランキング第2位となっている。そして多くの方々が本書に賛同する立場から書評を書いている。ここに再び書評めいたことを書くのは屋上屋を架す事となるので、私は以下の二点に絞って本書の読後感を記したい。一つは冒頭引用した小熊英二氏の述べる〝20世紀型社会秩序・政治の限界〟という点からみた本書の意味、二つ目は私自身のオーストリア生活体験から、極く身近に感じた本書紹介のオーストリア〝里山資本主義〟が何故これほど根付いているのかを解読してみることである。

閉塞感強い社会・政治状況を変える芽、それも〝里山資本主義〟

 

  本書は、〝マネー資本主義によらない〟〝マネー経済に依存しない〟暮らし方、経済のしくみを実践している事例を日本各地や海外から、足で稼いだ現地報告として精力的に紹介する。そして、そういった事例の教える経済のしくみを〝里山資本主義〟と名付ける。地方にはマネー経済の中で見向きもされなかったもの、すなわち瞬間的にはマネーを産まないものに新たな価値(というよりそれまで価値を認識できず捨て去ってきたもの)を見いだし、マネー経済の外で成り立つ仕組みを実践している事例がたくさんある。そして、そういった事例では実践している当人すら、その価値に気づいていないことが多いというのだ。

  人口減少社会・少産少死高齢化社会でGDPが結果的にすぼんでも、グローバルなマネー経済に関わらないローカルな仕組みも同時に持っていれば、決して慌てふためくことはない。こういった仕組みを持ちながら生活していると、思想としてではなく態度として現在の経済至上主義を前提とし、また原発再稼働をもくろむ政治にノーを突きつける事となる。小熊氏が政治と経済状況を打破する将来展望として着目する点は、言葉を変えると、まさに地方から進むこの〝里山資本主義〟そのものということになる。

EU優等生,森林国オーストリアのアンチグローバリズム・・・否応なく進むグローバリズムに抗して

  これまで多数の識者が危惧していたとおり、米を含む主要5品目を守るという公約が破られ、TPP交渉が進んでいる。高齢化・人口減少社会の現実とかけ離れた“マッチョな”売らんかなの経済を指向し続けるグローバリゼーションの流れ。グローバリゼーションは果たして不可避であり、我々の求める将来社会に必要なのか?その反省を込めた回答に、本書〝里山資本主義〟や〝スローシティー〟の考え方が急速に普及する。

  さて、医師なりたての1980年、約1年と少しの間、オーストリア第二の都市、古都グラーツで留学生活を送った。ここは留学先の国立グラーツ大学と並んでグラーツ工科大学があり、後者は本書でも紹介される森林という地上資源を有効活用するのに大きな役割を果たしている大学である。当時から日本以上に高齢化が進み、朝の通勤時間帯には近くの公園(ヒルムタイヒ)に日向ぼっこにでかける老夫婦がぞろぞろ歩いて行く。一方、子供は少なく大事に育てられている。広い森の中にある保育園は州立制。先生(保育士?)は多く、子供たちは多くの時間をピクニック気分で野外で過ごしている。ここは観光立国であると同時に精密機械や航空機エンジンに特化した企業もある。市内のアパートには概ね広い敷地があり、羊が放たれ雑草を食んでいる。まさに静寂で成熟した社会そのもの。そしてこの本で知った事であるが、このオーストリアはEU優等生なのだという。政治的、政策的意図か否かはともかく、観光資源や森林資源を有効活用し、国民も質素で外貨をあまり必要としない経済が当時から根付いていた。われわれが否応なく進む考えるグローバリズムに当時から自然体で抗していたのだ。市内は車社会というより公共交通(バス・電車)優先社会で、これは現在も変わっていないようだ。古都にふさわしくハプスブルグ家の別荘や公園も多い。街にしてはその生活時間も生活空間も実にゆったりした印象である。私が生活したのは都市部であったが、オーストリアという国そのものが〝里山資本主義〟や〝スローシティー〟という概念の生まれるにふさわしい土地柄をずっと以前より持ち合わせていたことは間違いない。

おわりに

  閉塞感ただよう政治・経済状況、格差社会、少子高齢化社会と、思うに暗い日本の今を映す言葉。こういった言葉に負けることなく勇気と元気をもらえる本が本書であり、それが今も読まれ続けている理由なのだ。本書を読み終えて改めて納得した次第である。

2014年1月9日木曜日

[IS-REC] “夏井 睦著『炭水化物が人類を滅ぼす』光文社新書 糖質制限からみた生命の科学”を読む

何故、炭水化物が人類を滅ぼす?その意味がわかった気になる本

炭水化物が人類を滅ぼす  本書のはじめに著者は「糖質制限」を「驚異のダイエット法」と紹介している。ほんとはなかなか厳しいはずの「糖質制限」をその人柄を反映しているのか、軽い乗りで著者自身がいともたやすく実践しているかのように書き始めている。
  著者は「外傷の湿潤治療」を世に紹介した有名人である。外傷の湿潤治療有効性は確かに医師一般に知られ、私自身も日常臨床で応用するが、彼の名前は本書を手に取るまで知らなかった。その有名人が今度は「糖質制限」である。本書を読むと特にその後半で「外傷の湿潤治療」と「糖質制限」の接点が見えてくる。

「糖質制限」は、人類の食物史と密接に関わる食事療法

 

  「糖質制限」は、人類の食物史と密接に関わる食事療法であり、著者も本書の後半で持論を展開している。本書の前半は著者自身の体験を踏まえた「糖質制限」の威力を紹介している。そのダイエット効果に始まり、いわゆる生活習慣病の高血圧や脂血異常も治癒、日中の居眠り解消などなど、良い事づくめである。

  続く章節で糖質制限の基礎知識やその問題点に触れている。この中で傑出するのは飲食物中の砂糖量を角砂糖の個数で換算して表示するウエブサイトの紹介である。清涼飲料水の多くに角砂糖十数個以上の糖が含まれていることを知れば、喉が渇いたからといってそれを何本も飲むなど、空恐ろしく感じることだろう 。

  次章「糖質制限すると見えてくるもの」では、そもそも、“糖質は栄養素なのか?”と疑問を投げかける。オーソライズされた食事指導で、“総摂取カロリーのうち、糖質6割以上”とされている事に何ら科学的根拠はないとする。

  さらに続く本書の後半部分では、穀物生産の現状に始まり、歴史的に産業革命以来、労働搾取の手段として食事に糖質が麻薬のように加えられてきたこと、などなど意外な事実を突きつけて糖質食の意味を紐解いている。

  引き続く次々章「哺乳類は・・・」からは、著者のスケール大きい蘊蓄が披露される。この後半部分の内容信憑性は私のような素人には判断できない。しかし全体として大げさに感ずる本書のタイトル、なぜ〈炭水化物が人類を滅ぼす〉のか、少しわかったようにさせられのが本書の魅力でもある。

一読を勧める。

[IS-REC] SMさんのメール年賀状と地域連携集会

  元旦、SMさんから新年挨拶メールが届いた。年賀メールは、手に取ってみる年賀はがきと比べると、いつもうれしさ・有り難さは半ば・・・・ しかしSMさんの新年メールを受け取って今度ばかりはとてもうれしかった。

脳卒中地域連携協議会集会に体験者として発表

  SMさんは還暦退職後、第二の人生も順調にスタートさせて意気揚々であった。脳卒中の発作はまさにその頃、思いもよらず彼を襲うこととなる。その後の治療とリハビリ。左片マヒを後遺し仕事を退いたものの、SMさんは見事に復帰を遂げた。

  だが彼への試練はその後も続き、様々な病に苦しむ事となる。とはいえ生来明るい性格、かつ永年の管理職体験によるものか、人を惹きつける知性がこの諸々の病と障害を克服、今も元気に私のもとに外来通院して来る。昨年からは左手の不全マヒに対し、本人も積極的に私が紹介した「川平法」を実践、外来リハビリと自主トレーニングで確かに手指の動きがよくなってきている。

  メール年賀状は昨年から続けているそのトレーニング効果の報告と、2013.11.09に自ら、“脳卒中体験者”として地域連携集会に発表できた事への感想をしたためたものだった。

  「(脳卒中)地域医療連携シンポジウム」は大仙・仙北二次医療圏を対象に秋田県地域医療再生事業の一環として開催、当日は福井大学の地域医療連携推進講座、山村 修先生の特別講演、当地での医療と介護連携推進現状と将来展望について私の報告、その後にシンポジウム形式の発表が行われ、SMさんにも体験を発表いただいた。彼の話は、長い闘病生活を語る内容と思っていた私の予想とは裏腹に、ユーモア交えて障害に負けず今日々の生活で取り組んでおられること、今後の希望を中心に語り、大いに参会者の拍手を浴びた。

  メール年賀状から想像するに、彼にとってこのシンポジウム体験発表が、その胸元にまた一つ大きな勲章を輝かす結果となったようだ。

[IS-REC] 賀状を整理、中学クラス会を思い出す

50年ぶりに故郷函館で中学クラス会

  例年にないまとまった暮れ正月休暇を、自宅でのんびり過ごした。そして、いただいた年賀状を整理していたが、その中に中学・高校同窓であった旧友B君の几帳面に「本年もよろしく」と書かれた賀状を見つけた。手にとって昨年秋に故郷函館で50年振りに開かれた中学クラス会を思い出した。

最初で最後が再会約束

団塊世代のマンモス中学在学

  M中学校3年H組。まさに団塊世代に当たる我が中学時代は約50人一学級、13クラスのマンモス中学校・・・(恐るべきか、小学校は教室が間に合わず一時、“2部授業”さえ経験した)

  還暦前後から高校・大学などの同窓会・同期会が開かれるよにうなった。しかし中学同窓会は案内状すら来ることなく、その機会はまったくなかった。当時の我が中学は諸事情で中学1年からクラス替えもほとんどなく持ち上がり、そのためクラスメートの結束は強かった。しかし卒業後、担任H先生が早く亡くなられたこともあり、地元の仲間うちでクラス会を持とうという呼びかけはまったくなかったらしい。そして約半世紀が経過した。

  昨年春、今もお付き合いする東京在住S君がたまたま上京したY君(故郷で理容業を開業)と歓談、その際に中学クラス会を開こうということとなった。古い住所録や各自のつてを便りに連絡の輪を拡げていった。そしてとうとう昨年9月21日、私を含む16名の旧友が故郷函館で集うこことなった。在函の面々の多くが参加。また私を含む道外からの参加も数名あって、会は大いに盛り上がった。今年賀状をいただいたB君は仙台からかけつけた。クラス担任を囲む事はできなかった。また大柄で屈強、事業家のH君が既に他界していたのは意外だったが、参加した男も女も当時に戻ってワイワイ、ガヤガヤと、“中学生”さながらに旧交を交わした。

  後日、地元地方紙(道新)に幹事を務めたY君の投稿で写真入りのクラス会記事が掲載された。この通称“3H(3年H組)”クラス会は皆が一致賛成したこともあり、今年も開かれる予定である。

[IS-REC] 2013年10~12月、私の運動記録~今更ながら昨年後半3カ月の運動実績を振り返る

期限付きの仕事が重なると、もう何も見えなくなるのだ!! この気の小ささよ!!

  期限付きの仕事が重なると、気の小さい私はその課題をどう期日までこなすかで頭が一杯、仕事の全体を俯瞰できなくなるようだ。この間に、敬愛するYさんの施設開所10周年記念講演会のお知らせをいただいたが、その不参加の返事すら滞ってしまった。11月9日の大仙・仙北地域連携集会、2箇所のリハビリ健診準備、秋田県医工連携ニーズ発表会、同現地研修会、いずれもプレゼンを伴う準備が必要で、日常業務をこなしながらの準備は確かに大変だった。そして何とか恥を晒すことなくこれらのイベントを終えることが出来た。

オムロン“Walking Style”記録にみる結果は惨めそのもの

201310-12運動実績

2013年10月後半からほとんど夜間フィットネス通いは休止状態。11月はもっと惨めで最悪。オムロン歩数計の記憶量オーバーで11月中2週以上が記録のない状態となってしまった。

12月、期限付きイベントを何とかこなした後、心に余裕が出来たはずだったがやはり精神的ダメジからの回復は遅く、フィットネスへは合計10日程度しか行かず。12月の1日平均歩数はやっと7282歩、そして総移動距離(歩行とジョギング)146.6kmでした。

暮れと正月休みはダラダラ過ごしてしまったが、頭を空っぽにできて少し気を取り戻したらしい。2014年の元旦が明けて、3日間連続のフィットネス通いを励行。このペースいつまで続くのかなあ・・・

過去に記述した関連記事

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...